Atelier de オジィ

ひろオジィの作業小屋雑記帖 

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宿屋からの100%勇気

昨日の続きです。
ゲルネ&エッシェンバッハのシューベルトにつきもうひとつ書いておきたいですが、「冬の旅」

この曲集で最も美しく感動的な部分といえば、20曲(道標)から21曲(旅宿)であると言っても多くの方は頷かれると思うが、特に21曲の Das Wirthaus は歌詞の内容も、メロディーも伴奏も文句なく素晴らしい。

宿に泊まる(お墓に入る、すなわち死ぬこと)を拒まれた旅人は、杖とともに旅を続けるべく宿屋(墓場)から歩みだすわけだが、最後の節の楽譜はこうなっています。

旅宿末尾

(楽譜では第一段の最後部分から)
まあいい、それなら旅を続けよう 僕の頼もしい旅杖よ
が2回繰り返される。その1回目前半で一度 cresc. 記号、(一度 p に戻る)1回目の終わりにさらにクレッシェンド記号がありさらに2回目の冒頭にはもう一度 cresc. と旅を続ける決意が力強く響く。
ここは歌詞の内容を考えても少なくとも歌唱部分については最後に向けてクレッシェンドしていくのが自然だと思うが、多くの演奏が必ずしもそうではない。むしろ最後の mein treuer Wanderstab でデクレッシェンドして(それは1回目の一度 p に戻るという指示が念頭にあるのだろう)良く言えば沈潜していく風に終わる。

比較的新しい録音や演奏では最後に向かって力強さを増す、が多いように思われるが、それでも後奏のピアノ部分はおおむね冒頭の静かなムードに戻る演奏が一般的のようである。
ところがゲルネ・エッッシェンバッハ盤では歌唱が大きなクレッシェンドでほとんどフォルテに達して終わるだけでなく、末尾のピアノ伴奏も最後までフォルテ!しかもこれが決してフォルテッシモにならない、というか鍵盤叩きすぎ強すぎに決してならないまさにギリギリのところで、最後の一音まで含めてこの曲の本当の姿や(曲集における)意味が伝わってくる。
この演奏を聴けば続く「勇気」(これが「から元気」と適切に訳されていることも)の意味がわかろうというものだ。
そしてつかの間のから元気を過ぎると太陽が3つみえちゃう殆どホワイトアウトした世界に戻り、その冬景色の先に辻音楽師が見えてくる。

最後にこの部分の自筆譜です。

旅宿末尾自筆

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    07:03 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

水車小屋の娘に

前回記事で画像を紹介したゲルネのシューベルト歌曲集は、実はボックス化に先立って3大歌曲集以外のものは既に殆ど所有していた。ボックス化されると、未聴のものをバラで買うより安かったので重複するけどボックスで買いなおした。

ゲルネの歌唱で3大歌曲集(美しい水車小屋の娘・冬の旅・白鳥の歌)を聴くのが結果として最後になったのは、3大歌曲集は他の歌手で良く聴いていたのでそれら以外のシューベルト歌曲を知りたかったという理由である。
実は大学時代、「美しい水車小屋の娘」全曲を(学内でのサークル的演奏会で)某ドイツ文学専攻の先輩の(学内のシュミ的リサイタルで)伴奏をしたことがあるので、この曲集はほとんど歌詞をそらんじているほどだ。それもあって本当に長い間改めて聴こうと思ったことがない。それに(当時はそうは思わなかったが)旅する粉屋が水車屋の娘を好きになっちゃったけどあっという間に猟師に奪われちゃって粉屋の青年は小川に突っ込んじゃってしんじゃった・・・って何ですか???みたいな、要は歌詞の内容があまりにナイーブ過ぎて困るわという固定観念に囚われていたのである。

そんなわけでン十年ぶりにゲルネのCDで聴いたわけですが、これが自分でも驚くほど素直に全曲通して聴き、改めてこの曲集の良さを少し理解したような気がします。
最初に聴いた時、思わずこれは!?と身構えなおしたのは第5曲 ( Am Feierabend 仕事終いの夕べに)で、娘にいいとこ見せたいけど自分の腕はよわっちくて小僧並み。仕事を終えてみんなが座っていると親方は今日もよくがんばったといい、娘さんはおやすみなさい、といってくれる という自分に対するイライラや、仕事を終えた集まりでの様子が歌われる。
この曲をほとんどテンポを変えずに一気に歌ってしまうのだ。中盤で(仕事を終えて車座に皆がすわる・・・)または娘さんがおやすみなさいという、という部分では普通テンポがやや落とされるのだがむしろせかすように音楽が進行し、この時点ですでに曲集が粉屋の悲劇をはらんでいる。
後半の一瞬かわいらしいラウテの緑のリボンから「猟師」「嫉妬と自負」とほとんどアタッカで進行する部分も同様、この曲集が最後から2番目の「粉屋と小川」に向かってガケを落ちて行かんばかりの勢いだ。
私の印象では、ゲルネとエッシェンバッハによるこの曲集は、すべてが「粉屋と小川」の末尾(すなわち粉屋が死ぬ)に向かって進む、ということである。そして最後の「小川の子守歌」が延々10分ほどにわたりゆっくりと歌われるのはまさにそれまでのストーリーとは別の、というか違う場所で歌われているかのようだ。

最後に、伴奏のエッシェンバッハにつきこのCDでの(私が)最も印象付けられた部分について記し、エッシェンバッハへのオマージュを捧げたいと思いますが、最後から2番目の歌「粉屋と小川」の最後の2小節です(もちろんここはピアノ伴奏のみ)。

粉屋と小川の末尾

この曲の最終節では(粉屋の)「ああ、やさしい小川よ、歌ってくれ」という小川への呼びかけで終わる。つまり詩で直截に粉屋が小川に首突っ込んで死んだ、なんてことはもちろん書いてない。
歌唱が終わり、ピアノによる後奏がそれまでのような音型で静かに終末に向かうのであるが、最後の3音(32分音符の2音と最後の和音)がかすかなニュアンスの強調がなされる。武満さんの某ピアノ曲の指示にならって「静かに、残酷な響きで」といいたいほどで、ここで粉屋が息を引き取ったと感じさせるに充分である。

すると最終曲(小川の子守歌)がこの世を離れたかのような、別の場所からのように聴こえるのは至って自然ななりゆきであろう。

    07:31 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

ステーキを食い続ける

まだ僕が高校生だったころ、往年のピアニスト(すなわちコルトーとかホフマンとかそんな時代)の残した名演奏ならぬ「名文句」から彼らの一面を描いた・・・ような本を読んだ記憶がある。その中で今も覚えているのは(それを言ったピアニストの名は覚えていない)「ベートーヴェンばかりで一夜のリサイタルを構成するのはステーキを何枚も食べさせるようなものだ」といった意味のことだった。

小品を別にしてベートーヴェン32曲のソナタだけから1つのリサイタルを構成するにしても最後のソナタ3曲をセットで演奏するというのはしばしばおこなわれているようだ。それに生涯を通して作曲された32曲がそれぞれに重要で変化に富んでいることはいうまでもなく、一夜のオールベートーヴェンプロは私としてはいいと思う。
しかし延々ステーキを食わされているように感じるとすれば、むしろそれは奏者のせい、というか演奏者独自の音色やアーティキュレーションに責任(?)があるんじゃないだろうか。

シューベルトについては3大歌曲集以外に膨大な数の歌曲があるが、自分はいくつかの著名な(ゲーテの詩によるものとか)曲以外はあんまり知らなかった、というかCDでまとめて聴くということがやや困難に思われた。フィッシャー・ディースカウ大先生による「歌曲全集」があることは知っていたが、ディースカウの歌唱で延々10枚以上のCDを聴き続けることに対して、僕をひるませるものがあった訳だ・・・ディースカウ氏が嫌いということではなくて、すなわち(好きだけど)ステーキを食い続けなくてはならない笑

そんな僕もつい1年少し前のこと、全集ではないけれども個人のシューベルト歌曲選集としては大きなボックスセットであるコレを買った。以来何度も聴いたが、先週からふたたび毎日のように聴いている。

ゲルネのシューベルトボックス

三大歌曲集以外のシューベルトの歌曲は、以前からイアン・ボストリッジとクリストフ・プレガルディエンの録音にお気に入りが多く、比較的最近ではマーク・パドモアも素晴らしいと思っている。いずれにせよテノールで、やはりシューベルト歌曲の多くはテノール(すなわち殆どシューベルトの原調ということになる)が自分には受け入れやすい。
その意味で、非常に有名な例では An Die Musik (D.547) 邦訳で楽に寄す、音楽に寄せて、を聴いてみましょう。
これは原調はニ長調で、例えばボストリッジ(伴奏ジュリアス・ドレイク)で聴くと内なるというか、秘めた憧れのような感覚が伴奏を含めて薫り立つかのようであるがこれはニ長調という調性ならではだと私は思う。
しかしバリトン歌手にかかると当然キーは下げられるわけで、ゲルネ様の場合ハ長調となる。この曲の歌詞は「音楽よ、芸術よありがとう」みたいなある意味ベタいといえなくもないが、それをゲルネ様の「ビロードのような」(と讃えられているのを見た)豊かな美声で、しかもハ長調で歌われると、私なんか本棚の前で演説するガーエフかよ・・・(チェーホフ 桜の園 第一幕でガーエフが古い本棚を前に芝居じみた感謝のセリフを詠唱するくだり)・・・ってごめんなさいごめんなさい。

時々(曲によっては)そう思いながらも、やっぱりゲルネは素晴らしい。やっぱりステーキ(沖縄のステーキハウスチェーン)ってとこですかね。またこのシリーズではピアニストが多彩であることも興味深いですが、しかし何と言っても3大歌曲集で組んだクリストフ・エッシェンバッハの伴奏は特筆に値する。これについては後日また書きます。


    13:15 | Trackback : 0 | Comment : 4 | Top

オキナワウラジロガシの新春

前記事で寒波襲来直前のオキナワウラジロガシ新芽をご紹介しましたが、その後は暖かい日が続き山はすっかり早春の趣です。

先週の画像ですが、某所(行ったことあるヒトはすぐわかる)のオキナワウラジロガシ。すっかり若い葉っぱに衣替えしています。

おきうらjan2018_1

こちらは立派に枝を広げた巨木。日没直前で樹冠の部分だけに陽があたっています。深い緑の葉の上が鮮やかな黄緑色の新葉で覆われているのでした。

おきうらjan2018_2

    19:41 | Trackback : 0 | Comment : 2 | Top

オキナワウラジロガシの冬

大きなドングリをつける「オキナワウラジロガシ」の実が今シーズン(というか昨年秋)ほとんど見当たらないことは少し前の記事に書きました。
その後、沖縄本島ではまああるところには普通に落ちているらしいことを知り、さらに西表島でも「平年並み」との話でしたのでバンナ公園や於茂登山ふもとなどを走ったり散策した際にはいくつかのポイントを注意深く見ましたが結局ほとんど見当たらず、自分の「オキウラポイント」はすべて今年はほぼ皆無!ということになりました。

しかし全く意外なところで実つきの良い場所を発見したり、まあ要するに昨年までとは違ったところで実はついていたようです。
バンナ公園内の遊歩道でみつけた殻斗(かくと、どんぐりの帽子のこと)。これは昨年12月上旬の画像。付近に少しだけ実も落ちていました。

オキウラ殻斗

そして年末のバンナ公園ジョギングの際、オキナワウラジロガシ大木の横を通過しながら「あなた今年は一個も実をつけなかったよね~」と見上げるとなんと既に新芽が続々・・・(画像の枝の先端に尖った新芽が見えています)

オキウラ新芽

そして昨日、雨の合間を縫ってバンナ公園を走っていると、谷間が鮮やかな黄緑色でまさに新緑の森に!
オキナワウラジロガシやイタジイが一斉に新芽を展開しているのでした。

オキウラ新緑

明日からひどい寒波に見舞われる予報ですが、大丈夫でしょうかね。
    09:55 | Trackback : 0 | Comment : 4 | Top

新春登山

新年あけましておめでとうございます。
本年もまだこのブログやめませんので笑
月に一回くらい見てください。
(今年はもう少し更新頻度を上げます←宣言した)

さて、昨日は良い天気だったので突然思い立って野底岳に行ってきました。
カミさんと一緒だったので、野底林道からのメッチャ近道登山です。
足元ばかり見てるカミさんは、しょっちゅう頭上を横切る樹木の枝に頭をぶつけ、イッタ~!って叫んでますがちゃんと上も見ないと。

野底2018_1

そうこうするうちにあっという間に(10分少々)明るくなってきて頂上目前です。先行する2名は若い観光客カップルで「ヤバイ!ヤバイ!」と100回くらい叫んでます。

野底2018_2

頂上にあるマーペー解説板の前でポーズ。ちゃんと読みなさいね・・・

野底2018_3

カップルがあまりにもうるさいので早々に引き上げますが、降り際に地元の若いニーニーが「撮りましょうか」ってなんて優しいのきっと今年はいいことあるよ!

野底2018_4

カミさんは30年振り(!)のマーペー山頂だったそうです。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

    19:55 | Trackback : 0 | Comment : 2 | Top
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Author:ひろオジィ

石垣島のひろオジィ 
オジィと称しているがおじいさんではなくおじさん。

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