FC2ブログ

Atelier de オジィ

ひろオジィの作業小屋雑記帖 

襤褸を纏ったこども侍

草に覆われてあったはずの小道もわからないような場所に私は、強い風の中でほとんど背中を丸めて立ちすくんでいる。顔は情けない半泣き顔で、いつ出たのかわからないような、ちょっとだけ目じりに残っている涙も鼻水もぬぐわないで立っている。気持ちはそれでも歩いていかなくては、と思いながらそれは自分のなかで徒労に過ぎないカラ元気を無理矢理呼び起こそうとしているかのようだ。

泥汚れの襤褸布をまとっているが、その背中には役に立ちそうもない、刀か、杖みたいなものが隠れて見える。

これは数日前の冷え込んだ明け方に見た夢だ。もう初夢、というには遅いが、昨年からときどき考えたりしていたことが象徴的に出ているようで目覚めて苦笑いすると同時に不安な気持ちにとらえられた。

上のように文章にするとなんだかどことなくカッコ良く響いてしまうきらいがあるが、この夢のあと目覚めたときの感情をしいていえば「みじめ」な感じで、そのときはボンヤリと、「旅立ちのときはお侍さんだったのだろうか?それがこんなボロボロになってしかもなんだか子供に退行しているみたいだ」などと思った。

この夢を分析するつもりはないんだが、いくつかの「出典」とおもわれる事について書いておきたい。

ただみじめなだけで気が滅入るこの風景のなかでとても(自分には)異質に思われるのが、ボロの子供侍(?)みたいな私が背中に刀か杖のようなものを隠し持っていることだ。これは昨年知ったある方のBLOG記事の内容を直截に反映していると思う。

私はもともと、農業の中でも花卉園芸方面に強い興味があり、実際に沖縄で農業手伝いをはじめたのも(これは偶然ながら)花卉農家であった。しかし花が流通して、どのように使われているか、を考えるとどうもおもしろくない。例えば「フラワーアレンジメント」作家の諸作品など、関心を持って見ていたが、多くが「花」でなくてもいいじゃないか、と思うのである。多くの人が「生きた花の力」を借りてそれなりの美しいブーケやアレンジを作られているが、そう、それならキレイなリボンでもいいじゃないか・・・
当然のように私の関心は「華道」での花の使い方に向かったが、華道での花材はそれこそハウスで均一に揃えられた規格品の花、は求められてはいないようで、「花卉園芸」との関連はやや希薄に思われる。また、逆に、育ちの均一で、茎(ステム)が頑丈で、色のバリエーションもあって、という現在の品種改良を重ねた花卉園芸用の花たちは、一体誰のために生産されているのか、だいたいそこで「優良」とされる性質・形質は誰にとって「優良」なのか。

・・・と、話がそれた。で、今でも何人かのフラワーアーティストや華道家の本を見たり、ネットで公開されたものを見たりすることは今でも続いている。前述の、昨年知った方は華道家前野博紀氏である。先日NHKの「トップランナー」で紹介されたので一気に知名度が高まったはず。その方のBLOG記事に何度か出てきたんだが、「武士の出陣の前に生ける花が華道のはじまり。花の生命を切って、覚悟のこころをいけて、自分の生命に向き合う」と書かれていた。華道の歴史としてこれが正しいのかどうかはともかく、彼は例えば地方に生け込みに向かうとき、花を背中にしょって、花鋏を携えて新幹線に乗ったりするらしいが、その姿はまさに、花を刀としてあたらしい道をきりひらく、みたいで面白いな、と思ったものだ。

ご参考 前野氏のサイト

出典のもうひとつは、音楽である。
昨年後半からよく聴いていたのは、シューベルトの最後の大交響曲ハ長調(通称グレイト、とも呼ばれる)。夢で私が立ちすくんでいた曠野は、この曲の第二楽章後半を聴くたびに喚起される風景(をみじめにしたもの)である。
が、この曲については別記事として改めて書きたい。

もうひとつの音楽はイタリアの作曲家ルイジ・ノーノの晩年の諸作。
タルコフスキーの追憶のために書かれた、殆どがG音(とその周辺)のみの作品。タイトルは「進むべき道はない、だが進まねばならない・・・アンドレイ・タルコフスキー」が一般的に日本語訳として使われている。私はイタリア語まるっきりわかりませんが、なんとなくこんな固い言い回しよりは、「道はない、が、歩いていかなくては・・・」くらいなんじゃないかと勝手に考えている。作品そのものは形容しがたいほど徹底的に厳しく、強度をもった響きで終始するが。

これは東京で初演されたはずだが、その際に作曲家本人が次のようなコメントを寄せたそうである。

人間の技術の変化の中で
新たにこれまでと異なる感情
異なる技術、異なる言語を作り出すこと。
それにより人生の別の可能性
別のユートピアを得ること。

私は、このコメントを、新しい技術革新によりこれまで有り得なかったような可能性の地平が開ける、といったことよりは、もっと個人的、内面的なニュアンスでとらえたい(ノーノもそのような意味で言ったのではないかとも思っている)。このことを昨年来自分の今後にことよせて、時折考えていた。

私のみた「みじめな」夢は、行き倒れあるいはお先真っ暗というものだったが、しかしその「出典」について考え始めるとこれはもうキリがない。カラ元気もわいてくる、というものだ。やっぱりこれは私の「初夢」だった?かもしれない。

    12:39 | Trackback : 0 | Comment : 4 | Top
Comment
2010.01.14 Thu 17:27  |  カムイ #vUfEqGYA
幸せなときは、正反対な心象風景が夢に浮かび出ると言います。順調さとバランスをとるかのように、猜疑的な気持ちの根っこが表れてくるのではないかと秘かに考えております。

私など、夢の中でコンサドーレのボランチに入って、キリノや中山をどう使うかに四苦八苦している能天気な毎日でございます。


  [URL] [Edit]
2010.01.14 Thu 21:54  |  オジィ #-
カムイ様
どー考えても現在は仕事の面で「幸せ」「順調」ではないんですが、私はたぶんカムイさんの200倍くらい能天気なので、きっと夢の中くらいはゲンジツを直視せよと言われているんぢゃないかと思います。

文末に書きましたが、私の今年のモットー?は「カラ元気」でございます。
  [URL] [Edit]
2010.01.15 Fri 12:43  |  南アのダンナ #-
はずかしながら、「襤褸」をどう読むのかわからず、手元に漢和辞典もないので、ググってようやくわかりました。とりあえず自分の中では「ムシロ」ってことにしてたんだけど、あっさりはずれでより情けなし。日本人ならこれぐらい読めて当たり前?
  [URL] [Edit]
2010.01.15 Fri 19:01  |  オジィ #-
ダンナ様
・・・ムシロ・・・ですか
ここでは「ぼろ」でいいんですが、もともとの読みは「らんる」でしょうね。いずれにせよ意味はボロでございます。
ところで「むしろ」もここで変換しただけでも「筵」「莚」「蓆」・・・いろいろな漢字があるようですね。
どちらも「漢字検定」マニアには容易でしょうが、読めない人も多いと思いますちゅうかこんな漢字普段殆ど見ないもんねぇ。
  [URL] [Edit]







(編集・削除用)


管理者にだけ表示を許可
Trackback
http://papayaisg.blog23.fc2.com/tb.php/486-565a8f70
プロフィール

ひろオジィ

Author:ひろオジィ

石垣島のひろオジィ 
オジィと称しているがおじいさんではなくおじさん。

最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
カテゴリー
ブログ内検索
RSSフィード